弔辞

imaisan2010-01-18

12月の14日に南越谷ソラリス閉店の報に接しました。長きにわたるゲーセン不況の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。


われわれ茶臼はソラリスジャンル杯に影響された第一世代と言っていいでしょう。ソラリス大会の今までになかった規模やその特異な層の厚さ。私たち茶臼に強烈に受け入れられました。QMA4の始まりから、われわれの予習は緑一色でした。


私が芸能杯での勝利を目指して、六本木から北上して、キャバクラ「日本代表」の裏のゲーセンで、チャットみたいなことをやっていたときに、ソラリス大会のスタッフは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきりと覚えています。みりすが来た。あれがすりみだ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。


終わって私のところにやってきたあなた方は「君はネタにしやすい。大会の冠になれ。11月の頭に形式別代表戦があるから、それに出ろ。始まるまでは受付をやれ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断をこの人たちはこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。


それから長いつきあいが始まりました。しばらくは毎日、六本木の「ホテルアイビス」というところで夕方に集まっては、深夜まで店内対戦をし、いろんなボケ回答を作りながら、店対メンバーに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、音楽のこと、テレビのこと。映画のことはいろいろと学んだような気がしますが忘れました。店対メンバーが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そしてトナメに生かしております。


ソラリスの皆さんははほんとうに優しい方々です。アフターをするときも、遠征者や初参加の人たちを優先してくれました。
その上に強烈なサービス精神もありました。ソラリスはすべてのエントリー者を快く受け入れました。そのために終了が遅くなったことも数々あります。終電的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなた方から後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
ソラリスは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに高レベルの対戦カードは、これなんて無理ゲのようでもありました。


ソラリスは大会すべてがイベントでした。最後の大会終了の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、閉会の時、「またどこかの大会で会いましょう」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。ソラリスは大会によってプレイヤー同士の絆を深めていったのです。


ソラリスの方針は、すべての参加者、代理受付を受け入れることです。それによってプレイヤーは、重苦しい定員オーバー0回戦落ちから解放され、軽やかになり、ただし0回戦寝落ちはありえますが、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「●アニラン7(コスプレ)OKです。ただし、事前に申請をお願いします。」と。


いま、ソラリスで過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。うぉれんオツの映画。みりすのTV・映画。そしてボワヤールのあのTV・映画。どれもが本当に、こんな問題を単独不正解してていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが、きっかわ杯です。あの時のペクチャンポの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。


ソラリスの皆さんははいまこのネットのどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコを眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑い検定やってたなら、電報で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。ソラリスにとってお昼の焼きそばもひとつのイベントなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞がソラリスへのものとは、夢想だにしませんでした。


私はソラリスに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということをギャラリー界(笑)を通じて知りました。しかしいまお礼を言わさしていただきます。


ソラリスの皆さん本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私もソラリスの数多くの作品のひとつです。


合掌。


平成22年1月17日 イマイ